「あの戦場体験を語り繋ぐ集い」へ行ってきました

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以前あの戦場体験を語り繋ぐ集いで予告した通り、9月21日(金)13:00〜16:00、日比谷公会堂 で、戦場体験放映保存の会 による、「あの戦場体験を語り繋ぐ集い」を聞いてきました。

日比谷公会堂には2,000人収容出来るそうですが、かなりの席が埋まっていました。途中報告では、1,600人を超えたとアナウンスがありました。発表予定者は50人だったようですが、当日出席出来たのは、35人でした。他の人は、体調が悪くなり、出席出来なくなってしまったとの事です。

聞いてきましたが、思っていたのとはちょっと違いました。「戦場体験を語る」となっていますが、うまく語れた人は少なかったように思えます。

発表は、一人600字との事で、持ち時間は3分弱の様でした。来賓のあいさつが長かったり、主催者によるまとめの時間が長い上、予定時刻の30分前に終わってしまいました。発表時間が足りずに、語り切れなかった人もいました。出席人数が減った時点で、一人当たりの発表時間に余裕を持たせてあげれば良かったのではないかと思いました。

戦場体験放映保存の会は、生き残っている戦場体験者30万人のうち、15万人の映像を「DVD」に残したいそうです。それを聞いていて、「なぜDVDなのだろう」と思いました。インターネットを使って、ストリーミング配信した方が、余程いろいろな人が見られるのだろうにと思いました。バックアップ目的として、「ビデオテープ」よりは「DVD」に保存した方が良いとは思いますが、仕組み作りとしては、どうかな? と思いました。

肝心の、聞いてきた内容を紹介したいと思います。聞き取れた範囲、メモした範囲で。大体、発表順に紹介しますが、多少、順番が入れ違っているかも知れません。また、印象が薄かった物は、飛ばします。戦場体験だけではなく、主義・主張を話している人もいましたが、下記では、メモに記録した通りに記載しています。

  • 攻撃の合図をするために立ち上がった瞬間に、敵の銃弾に倒れた友人。戦闘の後、弔う時間も無く、行軍(こうぐん)する事になった。仕方がないので、その友人の片腕を切り落として、一緒に行軍。行った先で、荼毘(だび)に付した。
  • シベリアに連行され、抑留された。9月でも気温は-20℃。そんな中を6日間歩いた。死体運搬人を任された。抑留された時点では、夏の軍服。死んだ人の衣類をはがして、生きている人に回す。今でも、死体運搬の夢を見る。
  • 特攻兵器、伏竜(Wikipedia) の要員だった。竹竿の先に、機雷を付けた簡易な兵器。でも、爆発すれば自分も巻き添えになる。訓練中から、「絶対にこんな兵器では、敵の船を攻撃出来ない。なぜなら、ボンベを背負うと前かがみになり、海上を行く艦船を見る事が不可能だから」と思っていたと言う。出撃無しに、終戦。
  • 戦争に行きたくなかったので、住んでいる都会ではなく、地方で徴兵検査を受けた。地方の人の方が良い物を食べて、体格が良いだろうと想像していたから。実際、行ってみたところ、そうではなかった。しかし、片耳が聞こえなかったので、徴兵ランクは低い方だった。それでも二年後に中国に行った。(時間切れ)
  • 20歳の時、砲兵として南方へ。戦闘中よりも駐留中が苦しい。
  • 満州にいた。終戦後の引き上げ時も大変。戦争は起こしてはならない。
  • 戦艦武蔵の生き残り。機関科にいた。暑くて大変だった。
  • 戦争では、あなたの愛する人が死んで行く。戦闘中ではなくても、行軍中に死んで行く。中国で3,000キロメートルの行軍をした。
  • 南方にいて、天狗熱にかかった。隊長だったが、病気のため、指揮を出来ないと思い、拳銃で自殺を図った。胸を撃ったが心臓を外れ、命はとりとめた。しかし、精神病患者として、内地へ強制送還された。そのまま終戦を迎えた。
  • シベリアに抑留されていた。アメリカとの開戦は、軍部の暴走だと思う。
  • 野戦病院で働いていた。コレラ患者を隔離していた。しかし、薬がなく治療出来ない。その戦地を離れる事になり、隔離していたコレラ患者を軍の命令で焼き殺してしまった。
  • 南方戦線で、米軍を殲滅(せんめつ)した。
  • シベリアに抑留された。重労働だったが、一生懸命働いた。
  • 夜行軍を6ヶ月間繰り返した。停戦になり、命拾い。
  • 南方戦線にいた。補給無しで、飢えとマラリアとに闘った。頼りは精神力のみ。
  • 中国戦線で、毎晩50キロメートルの行軍。
  • 潜水艦イ号の水雷兵、特攻隊員だった。停戦で捕虜になり、命拾い。
  • 旧日本軍の起こした戦争はスケールが大きすぎる。軍部の暴走を阻止出来なかった政府、報道の無責任。
  • 南部戦線にいた。航空機、戦車もない。切り込み戦闘しかない。食料も薬もない。終戦で、武装解除された。一緒にいた8割強は戦死した。
  • 対馬丸の乗組員だった。那覇から長崎に向けて出港した。見張りを交代して、休んでいたところ、魚雷3発を受けて沈んだ。船倉にいる子供たちに向かって流れ込む海水を忘れられない。対馬丸が沈没した場所に戻って、いかだをつないで7人を救助し、3日間漂流して、救助された。
  • 中国へ出征した。一緒に船に乗っていた80人の仲間は20人にまで減ってしまった。食料の補給がなく、命令で村を襲って、食料を調達した。
  • 落下傘兵だった。訓練の時、落下傘がきちんと開かず、人が落ちて行く光景を見た。上官からは、「それは人形だから大丈夫」と説明された。
  • 南方戦線で、軍隊の醜さ、人道外れを見た。戦うためには弾がなく、生きるためには食料がない。仕方なく、山岳地で4、5人に別れ行動した。憲法9条を守りたい。
  • 故郷から出征の時、父から、「生きて会えるのは今日が最後かも知れない」と言われた。戦争には負けたけれど、生きていられて良かった。戦争になると、国は、勝つためにどんなことでもする物だ。
  • 神風特攻隊員だった。6月19日に3機で出撃したが、悪天候の上、海面すれすれを飛んでいたため、うち一機が墜落した。そのため、引き返す事になって、命拾いした。戦後、「特攻は、命令だったの? 志願だったの?」と聞かれたが、22歳の自分には答は出せなかった。84歳になった今思う事は、戦争は国民を不幸にする物だ。南方戦線にいた人は、餓死だった。戦争は、絶対に悪い物で、してはならない。
  • 民間人だったが、戦場にいた。米軍に追いつめられ、自決をしようとしたが、父が止めてくれた。「何も、死に急ぐ事はない」と。そのおかげで、助かった。
  • 遺族の方の体験。父が南方で戦死した。その状況を知りたくて、生き残った人を訪ねて、心の空洞を埋めた。
  • 中国にいた。軍医だった。「軍医の技術を高めるためだ」と言う、軍の命令の元、健康だった現地の人たちを強制的に手術させられた。麻酔は使ったが、盲腸や片腕を切り取ったりした。
  • 航空兵だった。爆弾と片道限りの燃料を積んで飛び立った先輩が死んだ。旧ソ連の捕虜となった。60万人捕虜となったが、旧ソ連は補償をしなかった。小泉・安倍政権の様な、米国への追従は絶対ダメ。権力や国家は人を守らない。戦争をしない国にするのが必要。

一度(ひとたび)、戦争が起きてしまうと、国も人も衰退する方向へしか動かないようです。特に日本の場合、他国を攻めるとなると海を渡る必要があるので、輸送が非常に重要になってきます。南方戦線では、輸送が滞って、戦死(餓死)したと言う事がよくわかりました。

今の平和な日本でも、資源や食料を輸入に頼っている現状では、その輸送が滞ると大変な事になります。平和を維持しなければならないと思いました。

ちなみに、入り口で記帳コーナがあったのですが、何も書かずに場内に入りました。

Posted by お市のかた